由緒

<浜松秋葉神社起源>

 当神社は、徳川家康公が永禄十三(1570)年正月浜松城入場の際、秋葉寺第二十五代別当、叶坊光幡を浜松城下へ引具し、叶坊の願いを聞きいれ、犬居(春野)の秋葉権現堂を家臣奥平九八郎の屋敷に勧請したことがはじまりである。家康公が勧請した神社として、以後歴代の浜松城主の崇敬も厚く、多くの灯篭が寄進され、現在も形を残すものが存在する。

<祭神>
迦具土神
祓戸四神他十三柱

<叶坊光幡について>

叶坊光幡とは、犬居(春野)秋葉山の二十五代別当(宮司・住職のようなもの)であり、当社の初代別当である人物である。ここでは、その叶坊光幡について述べる。

 光幡は、元々、武蔵国鴻巣の領主熊谷氏の庶流であり、幼少時代は、熊谷小四郎といった。しかし、天文元年、鴻巣の戦いにより一族が全滅し、鎌倉に逃れ、十一才の時出家、茂林浄全という名の修験者として各地を納経して渡り、三河で加納坊光幡と改名し、1559年、三河松平氏の知遇を得るところとなった。

 当時の修験者の一部には、単に加持・祈祷をする僧侶だけではなく、各地を歩いてきた土地勘・僧侶としての教養を、各地の豪族・大名に売り込み、お抱えの外交官兼スパイとして活躍する者が少なからずいた。光幡もその例にもれず、三河松平氏当主、家康のために各地を飛び回るのである。

 光幡の功績として特筆すべきは二点である。まずは、犬居城の城主であった、天野氏を家康に帰順させたことである。家康の遠州攻略は、永禄十一年(1568)から開始し、翌年五月に掛川城を攻略し、南遠を平定し、平行して、北遠の豪族天野氏の帰順を、秋葉山に出入りしやすい、光幡を通じて進めていた。天野氏は遠州地方の代表的な武田方豪族であり、天野氏の帰順は、家康の遠州平定の要であった。結果天野氏は、永禄十二年四月に、光幡を通じて家康へ人質を伴って帰順した(後に裏切る)。この功績が認められ光幡は、家康から犬居秋葉山の第二十五代別当に任命される(永禄十二年八月七日)。そして、翌年の永禄十三年正月家康の浜松城入城に伴い、光幡も浜松に移り叶坊と改名、犬居の秋葉権現堂を浜松に移した、これが当社の始まりである。

 次は、上杉との同盟の締結である。元亀元年(1570)六月、有名な姉川の戦いの後、家康が浜松に戻ると、遠江は武田の攻勢下にあった。家康は、独力では信玄に適わないと思い、同盟国として上杉を選ぶ。この徳川・上杉の同盟締結の立役者が、光幡である。光幡の活躍により、同年十月に両家の同盟が締結されるのであるが、これに怒ったのが、信玄である。信玄は、遠江に進行し元亀二年(1571)三月六日に、武田側に寝返った天野氏の犬居城に入城し、同盟締結の立役者光幡が、別当をつとめる犬居秋葉寺を焼失させてしまう。以後、光幡は、家康の側近としてではなく、秋葉寺の再興を期す、秋葉寺第二十五代別当として、その生涯を捧げることとなり、弟子の二十六代別当光達と共に、秋葉寺中興の祖として名を知られることになるのである。


<浜松秋葉神社と武田軍>
上記したように、犬居秋葉を焼失させた武田軍と、浜松秋葉(当社)・犬居秋葉の別当を兼ねる光幡とは深い因縁があり、更に当社が屋敷に勧請された奥平信昌も武田軍とは、深い関係があった(奥平については後述する)。これらの因縁により、長篠の戦い後、織田・徳川に下った武田軍家臣の起証文が当社に奉納されることとなる(起証文は、大戦中に焼失)。

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